毛利輝元が後詰めできなかった理由とは?(2016/08/04)
赤(高)松之城水責之図(部分、東京都立中央図書館蔵)
織田氏との対決を前に、三木や有岡、鳥取など自陣営の城に有効な後詰めができなかった毛利輝元。あなたはその理由をどう見る!?
[投票実施期間]2016年08月04日~2016年08月26日
1.元就の遺訓により領土拡張を望まなかったことで、後詰めにも消極的にならざるを得なかったため。 |
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2.ほとんどの城が“勝手に”毛利側に与しただけで、毛利氏に後詰めをする義理が薄かったため。 |
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3.後詰めをするにも織田方の羽柴勢らの備えが固く、結果的に後詰め決戦に持ち込めなかったため。 |
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4.諸侯が期待した毛利の律儀さは幻想で、利害関係の薄い遠方への後詰めの意志がなかったため。 |
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5.表面上織田氏と対立しながらも、輝元自身が決戦に踏み切る決断力を持ちあわせていなかったため。 |
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6.その他 |
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「ニッポン城めぐり」利用者のコメント
西美濃守織部正(6を選択)
1〜5全部が理由だな。
相模守愛洲久忠(3を選択)
第二次木津川以降ことごとく裏目の感が否めません。織田方と対峙も背後から大友宗麟に脅かされるなど決戦の決断は選択肢に無かったでしょう。
水天凰大神大学助(3を選択)
単に織田家中の各陣所に対した軍略の範囲が広過ぎて対応しきれ無いだけかと…
ark主膳正(3を選択)
羽柴や宇喜多などがとにかく邪魔。これにつきる。(最初は関ヶ原に後詰めできない理由と思って質問開いてしまった(小声)
成田上野介のぼう長親 (1を選択)
やはり、偉大な創業者の言葉は重いでしょう。輝元と家臣に、「自分は元就以上に優秀な戦国武将だ」という自信やプライドが無いと…。そんな気持ちを持ったら、自惚れだと思いますがw
楠木美濃守五郎衛門(5を選択)
決戦への決断力と言うよりも、機動力によって秀吉を強襲する決断力があれば、秀吉の侵攻を退けられたと思います。両川の発言力が大きすぎたのも決断力を鈍らせたし、結局、隆元が落命した時点で、毛利は守りに…
暗黒大将軍(5を選択)
決断力もだが、輝元には統率力もなく、吉川元春・小早川隆景に振り回されて、とても信長と戦うどころの話ではなかった。
そこに足利義昭や本願寺から巻き込まれたというのが本音だと思う。
カエズ常陸介ガリュキ(5を選択)
輝元の優柔不断
紅い征夷大将軍いしじぃ(3を選択)
中国地方の地形を見るに隘路が多く拠点防衛に適しているものの織田方の誇張された軍勢と同等の大軍を移動が困難であったため。
備えが固くて侵攻困難だったのは織田方も同じ。
エースマンWAA太政大臣(6を選択)
元就の死後、自国も安定してなくて、外に軍勢を派遣出来なかったのでは
羽柴東市正且元(6を選択)
大友・島津が信長に臣従したからじゃないかな。大友は信長から防長2カ国もらえる予定だった。
けんじん備後守(6を選択)
宇喜多や播磨勢が裏切るかもしれないから深く入り込めなかった
一夢庵雅楽頭源内(6を選択)
元就の姑息なやり方で領土を拡げただけ。
そんな、長州に織田家という大きな脅威に立ち向かうだけの力もない。張り子の虎に何ができるの?
海老之介【⊕】摂政(6を選択)
叔父の小早川隆景が言っていたように、輝元には天下を治められる器量が無かったから❗
主計助しょうじ (3を選択)
これまでの織田方の戦を見て、毛利方の後詰めに当然備えていると
伊藤安房守鶴吉(3を選択)
でしょう❗
新西蘭守右近衛少将俊右衛門(5を選択)
結局、日和見。
もしかしたら、羽柴との密約もあり?
摂政中材三楽斎(5を選択)
輝元は贔屓目に見ても愚将でしょう。
てけてけてん(5を選択)
いろいろ要因はあるだろうが、天下取りの決断力がなかったからかな?
琉照(3を選択)
これが一番かと。
右近衛中将源氏嫡流末裔@狗鷲(6を選択)
備前に危険人物(宇喜多直家)がいて、彼の動向が怪しかったのも一因。
庄内尾張守矢田(6を選択)
解りません。勉強します(^3^)
小早川治部大輔尚景(3を選択)
輝元が凡庸でも、両川は健在であり、二人がいてもできないということは、織田方の戦略が勝っていたのでしょう。毛利側が全勢力を傾けれなくしていたのも、織田方の戦略の勝利かと。
京極弾正大弼ぽて丸(4を選択)
当然、戦国を生き抜くには義理がたさだけでは生き残れるはずもなく、利害が薄い遠方へは消極的にならざるを得ないはず。
SSRB主税頭(1を選択)
輝元に元就の遺訓を破り、毛利家存続を掛けた一大決戦に踏み切る事は出来なかった事は明白では?小早川、吉川の総意も含めたならば可能だったかもしれないが(・_・;
志摩守すとんぴぃ(5を選択)
1とこれな気が
あきちい播磨守(5を選択)
その当時の秀吉相手なら毛利が本気だせば十分勝ってたと思うのですがやはり信長の存在が大きかったのでしょう
聖戦士尾張守ヒロフミ【✤】(6を選択)
あの頃は、吉川と小早川の両川で支えられた感じだから、双方の主張が合わなかったのでは?
明石右大臣則実(3を選択)
九州、四国に対しても抑えの兵力は置かねばならないし、毛利領国が本格的に蚕食されるまでは温存しておきたかったのでは?
征夷大将軍西大寺信誠(5を選択)
難しい問題。
兵力の集中と決断、速度の遅さ、工夫の不足。
東の国人層の忠誠心の信頼度は必ずしも高いものではなく、慎重になる気持ちも理解できるが。
常陸介ちょくぎ(5を選択)
たぶんこれ
knights34治部少輔(5を選択)
まだ若かったしね。覚悟かなかったのかもね。
平朝臣井坂弾正少弼貞幹(5を選択)
毛利マニアに任せる
不動隼人正大河(6を選択)
吉川、小早川の両川に頼りっきりで長期的戦略を磨く機会がなかったため。
青き巨星弾正少弼かみ(1を選択)
洞春公の遺言は絶対であります。
Nabeppu左馬頭(5を選択)
その後の関ヶ原の時もそうだが、肝心な時の決断力の無さとしか思えない。
アンパンマン(6を選択)
2+3+5かな。総力を挙げて決戦すれば最終的に負ける事が分かっていた。毛利としては適当な所で和睦したかったはず。まだ遠い地なので本格的に敵対したくなかったのでは。
さとし(6を選択)
信長の後詰めを恐れたため
日向夏隠岐守(6を選択)
後詰はしてるし。西には大友あって瀬戸内海の村上も不穏な動きをしてるから全勢力を使うこともできんし失敗したから有効な後詰が出来なかったってのはただの力の差だろ。
【方喰】はいとうさん(4を選択)
中国統一のために、後回しにされた国力の拡大のために、積極的な交戦を避けたのではないでしょうか。
柴崎権大納言幸助(1を選択)
根本的にはこれかと。
ハチ兵庫助(3を選択)
兵力差が大きく、後詰に行っていても効果的な戦術が取れなかった
Michi(5を選択)
結局、輝元は全面対決を避けたかったんじゃ無いかと思う。決断力の無さがその後の毛利の関ヶ原に続いている気がする。
丸山近江守盛慶(5を選択)
関ヶ原や大坂の陣での対応も合わせ考えると 5 かと。決断力がなかったとしか思えません。
惟任丹波守咲庵光秀(6を選択)
信長に協力的であった大友宗麟の動きにも気を配らねばならず、思い切った後詰め行動に出れなかった。
【鯉人】日向守なおちゃん(5を選択)
関ヶ原を見れば一目瞭然
かげとら(5を選択)
織田との対決を望まないのか、消極的に働いて力を蓄えて和議に持ち込むか、いざ決戦の時は自国領内に誘い込み地の利をいかし一気に勝負を決して終おうと思っていたのではないかと?ただ輝元に度胸があったかどうか?
百段上総介久太郎(5を選択)
どの選択肢も理由の一つであるように思いますが、それぞれに元春と隆景らとの意識統一ができなかったことが輝元の判断を鈍らせたのではないかなぁ。
真田左衛門督幸村(6を選択)
宇喜多直家の存在があったから。
堤玄蕃允晴孝(6を選択)
そもそも毎回後詰できるほどの軍事力を有していなかったのでしょう。敵は秀吉軍が敗れても幾らでも盛り返せますし。どこかで乾坤一擲の大勝負に出るしかなく、それを見定めようとズルズル日が流れたのでは。
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