羽尾本田の屋敷群
羽尾本田の屋敷群([荒砥城 周辺城郭])
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羽尾本田の屋敷群の口コミ情報
2022年11月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
羽尾本田の屋敷群は荒砥城の西北約2.9km、雄沢川南岸(右岸)、標高約412mの河岸台地上平場に存した屋敷群です。
行き方は同じ荒砥城のリア攻めマップにある明徳寺館を参照して下さい。明徳寺の大門に連なる東側一帯には屋敷割りが残り、羽尾本田の屋敷群として信濃の山城と館2、更埴・長野編に記載があります。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。明徳寺館の主ははっきりしておらず、中世以前にそれを求める事も可能なんでしょう。南北町時代の南朝方の忠臣、宗良親王が一時期において更級郡に滞在する事が可能となった(千曲市戸倉柏王に残る柏王古墳群の至近に宗良親王髭塚が存する。)のは南朝方の勢力が同郡にあっての事で、明徳寺館の主もそうした有力者の一人であったのではないかとの推測が戸倉町誌にはあります。
屋敷割りは明治二十四年(西暦1891年)の公図、年代不詳の古絵図から明らかになったらしく、屋敷の周囲には石古良(開墾の際に出た石の集積、もしくは土塁の残滓か。)と呼ばれるものが取り巻いているらしい。戸倉町誌ではある程度の分限者の住した場所と推測しているけど、明徳寺館の主に関係するものなのかは謎なところ、実際に現地に赴けばこれを無視して成立するものとは考え難い(隣接して連なる。)のだけど…
屋敷割りは6箇所に分かれる。現況は耕作地、空地、グラウンド、一般住宅とその敷地等となっていて旧態は不明、石古良を探してみたけど、どれがそうなのかは全く持って判らない。一部敷地の境界に段が付いている事ぐらいが関の山…
どんなに経験を積んでも集落遺構ハントに慣れない(恥ずかしいのよ…そこら辺の畑の写真撮ってる人間なんて一体何処の世界に生きてるのよって感ぢじゃない?)おいらだけどこの場を借りて皆様にアドバイスを一つ…もし近隣住民を見掛けたら先手を打って自分から「こんにちわ〜」とか挨拶しましょう。その後は何だか許可を頂いた様な気持ちにもなって集落遺構ハントが楽にもなります。テレパシーで許可を得ようとしてちゃやっぱしだめだなぁ…挨拶フォーエバーです。
※写真中にある後背の小山は同じ荒砥城のリア攻めマップにある堂城山砦っす。