善正城
善正城([望月城 周辺城郭])
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善正城の口コミ情報
2022年09月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
善正城は望月城の西北約7.2km、標高約696mの台地丘陵地緩斜面上平場に主郭が存します。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨ててOK♪レベルです。
築城年代、築城者は不明です。地元の古老の伝えるところによると、小県郡丸子の城主、箱山判官国正の弟、太郎善正の居城だそう。小県郡依田庄、丸子郷を支配領域とした依田氏は箱山城、善正城を築いて佐久郡への進出を図り、芦田古城を築いて同郡芦田郷への進出も図る。この事実は佐久郡の大半を支配領域とする大井持光を刺激し、大井氏と芦田(依田)氏の争いに発展する。信濃資料によれば、永享七年(西暦1435年)一月二十九日条、時の将軍足利義教は召し出していた信濃守護小笠原政康を帰国させ、越後守護代長尾邦景と共に大井持光を援けて芦田下野守を討伐させたが、同年二月十七日条では和睦を命じている。翌年三月六日条、小笠原政康は芦田氏討伐のため小県郡祢津に攻め寄せ、芝生田、別府の両城を屠り、同年八月三日条では芦田下野守はこれに服している。一連の流れは将軍家と鎌倉公方(万人恐怖足利義教VSいきり公方足利持氏て感ぢ?)の対立にも影響されているようだ。
お城の現況は土地の構造改革によってすっかり改変されてしまっているようで、長野県町村誌にある「丘の尾先に作られた城で…」は主郭の周辺に僅かに面影を残すのみとなっている。主郭は現況微高地を形成していて墓地となり、主郭の三面に残っていたていう土塁も確認出来ない。又、縄張図にある堀形が現況水路となって残っているけど、周辺はこれもそうならあれもそうじゃない?みたいな感じで水路だらけなのが悩ましいところ…
ネガティブな事書きましたが、此処がお城だったてのは充分理解出来る。遠目から「あそこでしょ〜」と思っていた場所がそこでした。リア攻め中は果樹園の鳥獣駆除装置の出す7種類の警告音が頭の中で常にリフレイン、「あっ。危ない!爆弾だ〜どーんっ!」…2週間経つけど完全に刷り込まれていますわ…