倉見城(茂田井城)
倉見城(茂田井城)([望月城 周辺城郭])
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倉見城(茂田井城)の口コミ情報
2022年09月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
倉見城(茂田井城)は望月城の西方約2.5km、標高約729mの台地丘陵地緩斜面上平場に主郭が存します。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は自身の責任においてそこら辺に捨てましょう。
築城年代は不明、築城者は米持氏とされています。同氏は現地の説明板によると、信濃国高井郡井上氏の井上三郎満実の子、三郎五郎家老が高井郡米持に移り住み米持氏を名乗り、その子孫が佐久郡に来住して倉見城を築いたんだそう。その後、芦田二郎光遠の代に倉見「木の宮」に築城し芦田庄司となり、甕(もたい)氏を名乗ったそうです。
が、高井郡井上氏の一族が単純に佐久郡へ進出する事が出来るとはとても考えられない。信濃守護小笠原政康による永享八年(西暦1436年)の芦田(古)城攻めは依田右衛門尉経光、米持二郎光遠が主攻で、芦田氏滅亡後に芦田郷に隣接する甕(茂田井)郷を恩賞に受けたものと考えるのが自然でしょう。
お城の縄張はほぼ独立した短冊状の丘陵全体を活用しており、コンパクトながらも10の郭を持つ。が、夏場は人類が到達出来ない激藪が大部分を占めていて、それを確認するのは不可能に近い。信濃のお城の神も3、8.、9郭の調査を諦めています。城域南端に堀切が1条、現況舗装農道として残ってるのがせめてもの救いだった…ちなみに城域は後世耕作地としてフル活用、今も一部分において耕作が続けられています。
倉見城の存する茂田井の地は、近世に中山道が整備されると茂田井間宿(もたいあいのしゅく、間宿は宿場間に発達した休息用の宿場、宿泊は禁じられた。幕府公認の宿駅制度からは外れる。)として発展しました。何でも映画、たそがれ清兵衛に使われたオープンセットは此処の武重本家酒造の裏手に造られたんだそう。真田広之ファンは是非…