高久城

高久城([野口城  周辺城郭])

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高久城の口コミ情報

2023年03月28日 疲れた人


高久城は台地の突端、那珂川の河岸段丘上にあり、東、南、西はかなりの急斜面になっています。東西には八幡沢と呼ばれる沢があり、天然の要害になっています。北側のみ台地が続きます。佐竹氏の城郭では、おなじみの地形だと思います。城内は、宅地と畑になっていますが、既に出した写真のとおり、丁寧に歩けば、点々と残るしっかりとした遺構をあちこちに見つけられると思います。宅地の中の遺構としては、かなり見応えがあると思います。

以下、高久城にある案内板にあれこれつけ足してまとめてみました。

永仁元年(1293)大掾氏家臣、鈴木五郎高郷の後裔高範が築いたといわれます。鈴木氏没落後は、廃城になりますが、佐竹8代行義の6男、馬淵小三郎景義が御前山村の野口城に移った後に、景義の子景有が更にこの地に拠り、高久を名乗ります。

この高久氏は、佐竹氏の一門ではありますが、とにかく佐竹宗家とはソリが合わなかったようで、佐竹宗家に逆らい続けます。

山入の乱の時には、山入氏側につき、高久義景は佐竹氏宗家側の大山城の大山義正と戦って敗れます。この後も、部垂義元の乱に加担して、佐竹義篤に攻められて敗走し降伏して、その後は佐竹氏に従います。

天文12年に、9代義時と10代義貞、その子である宮寿丸は、陸奥久保田・関山の合戦に佐竹氏の配下として従軍しますが、3代揃って討死し、高久城も廃城となります。

※3代揃って討死のくだりに、いつも引っかかります。誰か1人ぐらいは残るもんじゃないのかなあと…。散々、佐竹氏に逆らってきた高久氏は、やはり佐竹氏にとっては信用ならなかったんではないかと思うんです。合戦のどさくさに紛れて、3代まとめて誅殺したのを、討死したと言ってるだけなんじゃ…といつも看板の前で考えちゃいます。

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