コンビニほどお城を見かけない理由(2016/09/01)
知られざる日本のお城の数
歴史ブームと言われる昨今、姫路城のようなスター級の観光地は言うに及ばず、特に戦国武将にゆかりのあるお城などでは昔に比べるとはるかに多くの人を見かけるようになった。
日本には、歴史上記録に残るものだけでも2万数千、名前も分からない小さな遺跡まで含めると約5万ものお城があったと言われる。
この“5万”という数字、よく考えたら恐ろしい数字である。2015年9月時点の日本のコンビニの数が約5万3千店(『JFAコンビニエンスストア統計調査月報』)。つまり、お城は現代のコンビニとほぼ同じ数あったことになる。
コンビニは今や生活に欠かせない存在であり、たとえば通勤の途中だけで何軒も見かけるということも珍しくない。一方お城はというと、通勤途中に何城も見かけるという話は聞いたことがない。同じ数のはずなのに、なぜお城はコンビニほど見かけないのか?
その理由は単純明快、お城は“なくなってしまったから”である。そもそも当たり前過ぎてそんなことは誰も疑問に思わないかもしれない。
だがしかし、一言で“なくなってしまった”といっても、実はそこには様々な理由があるのだ。
長い歴史の中で消えていったお城
まず、5万のお城があったとはいえ、それは古代から近世に至るまでの歴史の中の話であり、その過程で存在価値を失って廃城となったものや落城後に破壊されたものが無数にある。
山間部なら開発を免れて石垣などの痕跡が残っていることもあるが、都市部では何事も無かったように城跡の上に高層マンションなどが建ち並ぶ。これでは通勤途中に気付くはずもない。
当然のことながらお城は木造建築である。自然災害によって消滅したものも数多く記録に残る。石川県の金沢城のように落雷によって天守が消失した例も多いし、群馬県の前橋城は利根川を天然の堀に活用していたが、その利根川自身の浸食によって廃城となった。また、岐阜県にあった帰雲城(かえりぐもじょう)というお城は大地震で大量の土砂に埋もれ、一夜にして地上から姿を消している。
このように歴史の荒波と自然の猛威によって長い年月の中で陶太されたお城がある一方で、ある特定の非常に短い期間に大量のお城がなくなったケースもある。
一気に数を減らすこととなった出来事
その1つが江戸幕府が慶長20年(1615)に発したいわゆる『一国一城令』である。例外はあれど一国(藩)につき1つのお城を残して後はことごとく破壊されている。この法の施行によって全国のお城の数は一気に10分の1以下に減ったと言われ、お城にとって冬の時代が到来した。
一国一城令で生き残り江戸時代をくぐり抜けたお城も、明治維新のタイミングでは旧権力の象徴としてその多くが取り壊されまた一段と減った。そしてさらにその後に、だめ押しとも言える出来事があった。
それが戦時中の空襲である。金のシャチホコでおなじみの現在の名古屋城天守は空襲で焼けた後に再建されたものであり、和歌山城・岡山城・大垣城(岐阜県)などの天守もすべて空襲で焼失し、その後再建されたものだ。広島城に関してはアメリカ軍の原爆投下によって倒壊している。
以上のような様々な原因でかつて5万もあったと言われるお城はほとんど“なくなってしまった”。
現在、文化財指定を受けているようなお城は今後も保存され意図的に破壊されるようなことはないが、名もなき城跡は今日も日本のどこかで開発の波に呑み込まれ、その痕跡すら消滅する危機にさらされている。
閉店しても次の瞬間にはまたどこかで新店がオープンするコンビニと違って、お城は基本的に減る一方。せめてお城があった事実だけでも偲ぶことができるように、全国で城跡の保全・整備が進む事を願うばかりである。
(記事執筆:橘 勝悠)