西原城(にしはらじょう)

西原城の基本情報

通称・別名

舞天城

所在地

鹿児島県鹿屋市輝北町上百引一番郷

旧国名

大隅国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

図師祐貞

築城年

養和元年(1181)

主な改修者

主な城主

図師氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

碑、説明板

周辺の城

恒吉城(鹿児島県曽於市)[5.8km]
廻城(鹿児島県霧島市)[14.3km]
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西原城の解説文

西原城(にしはらじょう)は、鹿児島県鹿屋市輝北町にあった城である。

町役場後ろの小高い丘を城山と呼んでいるが、通称「西原城」で別名「舞天城」ともいう。

概要 

築城者および時代は判明しないが、左近正助良が居をかまえた以後何代目かの領主が築城したものと考えられる。

城は雌雄に分かれ、武士達の馬乗馬場の面影がわずかに残っている。

歴史 

図師家累代20世、434年間の居城であった。図師は養和元年(1181)、百引の内の西原・堀切村を、強弓で名高い図師豊前守祐貞が拝領し、船隈村(現在の鹿屋市田崎町)から着任。その子祐澄が堀切村に居をかまえた。

その後現在の役場敷地に永明庵(後の恵日山般若寺)を建立して百引探題職左近将竪物亮の要職と百引6か村を知行した。寛正元年(1460)左近正助良のとき西原村城麓に居を移した。

図師家は元来肝付氏に仕えた。この城は北朝系(島津勢)や外敵の襲撃を監視し、万一の時は高山の肝付本城に狼煙で通報する北方監視に重要な城であった。図師家は後世に至り島津に帰服(降参)している。

西南戦争の折は西郷軍と官軍が激戦を展開し官軍が大敗を喫したところでもあり、太平洋戦争のときは敵機襲来の監視所が設けられるなど度重なる古戦場の跡である。

現在、明治百年記念公園として生まれ変わり町民の憩いの場として親しまれている。

情報提供:鹿屋市文化財センター


西原城の口コミ情報

2024年03月06日 RED副将軍
高隈城[西原城  周辺城郭]



激ヤブの先にある巨大垂直堀切が特徴的な肝付氏の支城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。南北朝時代に楡井頼仲によって築かれたとも云われます。
楡井頼仲は南朝方に属しており、1351年には北朝方の畠山直顕の命を受けた禰寝清成が高隈城を攻め寄せて落としたとされます。
戦国時代には肝付氏の属城となっていたとされ、1538年から1542年にかけて新納氏、禰寝氏との攻防戦が行われています。
1578年に肝付氏が没落すると島津氏重臣である伊集院忠棟の属城となり、その後の江戸時代には外城として高隈麓が置かれました。

見所
湾曲した串良川に三方を囲まれた標高163mの丘陵上に築かれています。
西側の主郭部と東側の外郭で構成されており、山頂に主郭を配し、北下に二郭、急峻な堀切を挟んで北東の小ピークに三郭を配しています。
主郭部と外郭はシラス台地の大きな切れ間を利用した巨大な堀切であり、シラス台地の堀切を通路として登る構造です。
外郭の北側も垂直堀切で硬められておりマイナーながらも迫力満点の城郭です。

行き方は、城域北側の国道504号沿いに案内板が立っています。案内板周辺の路側帯に駐車し南の集落へ下りて行きます。突き当たりに小屋があるヤブ気味の広場に着きます。城域方面のヤブに踏み跡があり沢沿いを登ると辿り着きます。主郭までの比高は約90mで急峻な箇所もあります。

登城路は背丈ほどの激ヤブと倒木で不安になりますが、城域に入ると一気に開けて遺構は素晴らしいです。そのツンデレ度に秘めたるM気質が開花することでしょう。芽生えの城です。

2024年01月18日 徳にぃ図書頭銀座のすずめ
西原城



駐車場について
霧島市と鹿屋市を結ぶ504号線輝北町内に「大隅肝付地区消防組合輝北分署」の横に「西原城跡⇒」の看板がありますので登って下さい。途中突き当りは右手に更に突き当りを左手に行けばもう頂上!

斜面に遺構がありそうですが探せません。遠く見渡せる景色を見て当時に思いを馳せて下さい。

写真は今は道路、昔は空堀のよくあるパターンの遺構です。

2023年11月27日 RED副将軍
加瀬田城[西原城  周辺城郭]



巨大な堀でブツ切りにされた凄まじい土木量の肝付氏の支城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。歴史は古く鎌倉時代末期に肝付氏によって築かれたと伝わります。
肝付氏は、ヤマト王権の中枢にあった伴氏(大伴氏)の系譜であり、969年に伴兼行が薩摩掾に任命されて下向し、子の伴兼俊が肝付氏を称して土着したのが始まりとされます。高山城を本拠地とし、大隈半島を支配した有力土豪で、隣国薩摩の鎌倉御家人をルーツに持つ島津氏とは対立し続けました。
1336年、8代当主の肝付兼重は南朝方に付き、加瀬田城の肝付兼隆は籠城し、北朝方の島津貞久と1ヶ月に渡り争ったとされます。三股城からの援軍を待つも、援軍は北朝方に阻まれたため落城したとされます。
1531年には信濃源氏の系譜で南朝方の楡井頼仲が領有しており、加瀬田城には弟の楡井頼重が入城し、北朝方から派遣された畠山直顕と戦うも敗れたとされます。
天文年間(1532年〜1555年)になると16代当主の肝付兼続は加瀬田城を奪回して旧領を回復したとされます。
1578年に19代当主の肝付兼護が島津氏に臣従し、事実上で肝付氏嫡流が滅亡すると、加瀬田城のその後の動勢は分かっていませんが、新納氏などが在番していた様です。

見所
堂篭側西岸、平房集落北側の標高200mほどの丘陵上に築かれています。
東西に伸びた尾根を巨大な二条の堀で分割し、大きく東の郭群と西の郭群で分けられ、それぞれが巨大な三段の郭群で構成されています。
東側ピークが主郭とされ、かなり広い削平地に背後には大土塁で、土塁上も物見とされる小郭が配されています。
要所には桝形や腰郭が配され、登城路も至るところに横矢が掛かっています。
圧巻なのは郭群を隔てる堀です。元々、谷地形があったとしても凄まじい土木量です。

行き方は、城域南側に登城口がありいきなり巨大な竪堀が現れます。東郭群は整備が行き届いており比高は約50mです。
西郭群は未整備で下草に覆われており、東郭群と西郭群を隔てる堀は深すぎるので一度降りてから西郭群に登り返すことになります。
駐車場はありませんが、周辺にスペースはあります。

インパクトのある鳥瞰図を見て伺いましたが、想像を絶する大規模なものがまさに鳥瞰図通りでした。数多の訪城をしてきた中でも強烈な印象を受けた次第です。百聞は一見にしかず、是非ご訪城をくださいませ。

写真
①東郭群と西郭群を隔てる巨大竪堀
②東郭群へと続く切り通し
③④⑤登城路は至るところに腰郭が配され横矢が掛かる
⑥二郭と主郭切岸
⑦かなり広い主郭は背後に土塁が聳える
⑧主郭背後の土塁上

西原城の周辺スポット情報

 古石塔群(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 高隈城(周辺城郭)

 加瀬田城(周辺城郭)

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