黒川城(くろかわじょう)

黒川城の基本情報

通称・別名

所在地

広島県世羅郡世羅町大字黒川字城山

旧国名

備後国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

江村栄基

築城年

天文年間(1532〜1555)

主な改修者

主な城主

江村氏

廃城年

遺構

曲輪、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

周辺の城

相良城(広島県三原市)[11.0km]
五龍城(広島県安芸高田市)[15.0km]
日下津城(広島県安芸高田市)[15.3km]
高杉城(広島県三次市)[16.7km]
吉田郡山城(広島県安芸高田市)[17.6km]
松嶽城(広島県東広島市)[19.2km]
平賀氏城館(広島県東広島市)[19.4km]
鈴尾城(広島県安芸高田市)[20.9km]
猿掛城(広島県安芸高田市)[21.8km]
上下陣屋(広島県府中市)[22.2km]

黒川城の口コミ情報

2023年12月16日 大内周防守毛利
国光城[黒川城  周辺城郭]



 吉田郡山城よりメインで行った国光城(別名 六郎山城)。建保年間(鎌倉時代初め)に三浦弾正国光によって築かれたとされ、現在残っている横堀を伴う畝状空堀を持った時期は不明です。ただ、周辺の城郭にも同じような形式のものもあり、また畝状空堀は国衆などが大名など巨大な組織相手に構築されるものが多いためおそらく大内方国衆が尼子氏と争った時に現在の形式に至ったものだと考えられます(北部九州の畝状空堀だと横堀を伴う形式は技巧的なものとして天正年間まで時期が下がるものとされていますが、天正年間に毛利氏本拠のすぐ東側にあたるこの場所が戦場になっていないので考えづらい。その時の毛利氏の戦線は播磨から備中)。
 この城郭の特徴として外枡形虎口やそれに横矢がかかるものではあるが、石垣に矢穴はなく、また縄張りの形も方形とはなっていない(安芸において天正より後になると方形となる傾向がある。ただこの城は単郭式で北辺が四角くなり、また内部区画は段差が伴う区画が見られるが、測量した訳ではないので内部区画が方形になっていないとは言い切れない。輪郭は畝状空堀が構築された時と同時に区画されたものであろう)。
 虎口は城の北辺の西側、城の南西側、東側の計3箇所にある。城の西側は台地上の谷となり、現在と同じように道が通っていたのであろう虎口が2箇所そちらに向いている。北辺西の虎口は同じく北辺にびっしり設けられた畝状空堀を越えて城壁に取り付く形で虎口がある。さらに優れている点にこの虎口の坂道を登るときに背を向けた方に背後から攻撃できるように城壁に折れがある。この折れはさらに南西の城外側に張り出した枡形虎口(曲輪)に対して防衛する際や出撃して攻撃する際の援護射撃として要を置いている。この折れが南西に対して満遍なく攻撃できるようにこの折れと外枡形の間には唯一畝状空堀が存在しない(存在すると敵兵士が隠れる盾となってしまう)。この折れにより城が防衛オンリーではなく、極めて攻撃的な城郭と変貌していることはかなり技巧的で考えるだけで興奮させるようなものとなっている。南西虎口は外側に貼り石垣を伴う空間から通路を経て枡形(曲輪)となり、そこから北側の折れに向かい下りて出撃する仕組みとなり、それ以外の西、南側は横堀(西と城の南で堀切に変化)があり、守りも厳重となる。東側の虎口も外枡さらに横堀、横堀に出た敵に攻撃できるように横矢がかかり、横堀は畝状空堀と接続する形となる。虎口とその周りの横矢、そして畝状空堀と難攻不落をまさに呈する城郭となっている。
 石垣の石は長方形のものがあれば北辺にある溜池状の窪地に構築された石垣、虎口の両側にあるやや小さめの方形に近い石材、また南西の虎口の外側にやや大きめの貼り石垣があるなどいろんな意匠が見られる。
 この城の面白い点にもう一つ。佐賀の吉野ヶ里や荻生徂徠の『吟録』の北条流で指摘されているように土塁の内側に内虎落の代わりの堀が見られる。
 この城は戦国時代全く史料にでないが、優れた築城技術を持っていることで重要な拠点であったことが考えられる。この城の魅力的な点を挙げるとキリがないですが、吉田郡山城よりおススメどころか今までの城でNo. 1といっても過言ではない城でした。この城のアクセスですが道は存在しません。この城の近くのカーブの部分に段々に積まれたブロックの南端から道を掘り抜いた上の部分スレスレから木々が少なく、石が多くなったところから高い方に歩くと城に着きます。

2023年03月05日 織田上総介晃司
高八山城[黒川城  周辺城郭]

林道の先に登城口(搦手口)があり、そこまで車の進入可能との事ですが、悪路の上狭く倒木もあったので林道入口に通行の邪魔にならないように停車。

曲輪・土塁・石積・堀が残る。手入れがされてないため曲輪は雑木林と化しております。

高八山城の近くに唐揚げ屋があります。という事で、はしご茶臼城の後ははしご唐揚げしました。

2023年03月05日 織田上総介晃司
茶臼城[黒川城  周辺城郭]

三次市三和町にある茶臼城 国道375号に説明板と案内板があり、敷名八幡神社に駐車場があります。

見所は他の城に類を見ない七条の畝状石塁です。竪堀や堀切も大きなスケールで見ごたえあり。これほどの城でありながら歴史的詳細不明という摩訶不思議。

はしご茶臼城をしてしまいました(世羅町&三次市三和町)

茶臼城の目の前にある美波羅川沿いにさくらが植えてあり桜の咲く頃は「美波羅川千本桜」として美しい景色を見ることができます。

茶臼城の近くに広島のラジオ局で某アナウンサーがパーソナリティを務める番組内で紹介している唐揚げ屋があります。(某アナウンサーがプライベートツーリングで立ち寄るそうです)

2023年03月05日 織田上総介晃司
茶臼城[黒川城  周辺城郭]

世羅町にある茶臼城(町指定史跡)登城口のそばに駐車スペース有り。
すぐ近くに茶臼城(三次市三和町)があるためこちらは正式には備後茶臼城。

見所は畝状竪堀群。写真でもはっきりとわかる深い竪堀に魅了されます。

世羅町は観光農園と駅伝の町です。
年末の都大路を走る高校駅伝の強豪校・世羅高校のある町です。

2021年10月16日 RED副将軍
茶臼城[黒川城  周辺城郭]



世にも珍しい畝状石塁の城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代等、詳細不明の山城です。
周辺の城と同じ様に戦国期にこの辺りを支配していた敷名氏の城郭と考えられています。

見所
二つの郭を南北に並列した簡単な縄張りながらも、特徴的な城郭。
北主郭西側下の畝状石塁が7条。全国的にも珍しい遺構。
北主郭と南主郭を隔てる堀切。
北主郭の切岸は高さ、鋭さはかなりもの。まともな登り口がありません。

敷名八幡宮に駐車場があり、茶臼城への看板に沿って進みます。駐車場完備に案内板があれば登城は簡単と思ってましたが、結果として違う尾根筋で30分迷うことに…💧
看板に沿って進むと、山手の右手にも道が分かれますが、気にせず直進です。ヤブと木の枝に阻まれ、掻き分けながら進むと、ようやく次の看板が現れます。
しばらく登ると、左へ進むと遠見岩の看板が出てきます。道中の案内板の略式図には南主郭の南側に遠見岩が描かれているので、その通りに直登すると別尾根に入り、約30分彷徨うことに。結局は地形図から現在地と城跡を割り出して辿り着きましたが、略式図の位置関係は全く違うのでご注意を。谷筋を直進すれば10分で辿り着きます。

写真
①②③畝状石塁
④北主郭の石積み
⑤北主郭と南主郭を隔てる堀切
⑥南主郭
⑦北主郭
⑧案内板の略式図(遠見岩の場所が大きく乖離)参考程度に

2020年11月11日 大膳大夫マイリバ
茶臼城[黒川城  周辺城郭]

~ 茶臼城解説板より ~

茶臼城跡(三次市三和町敷名)

本日域は、美波羅川中流洗域の敷名の水田地を見下ろす丘陵の尾根に、築かれた連郭式の山城です。
この山城には、竪堀の代用とみられる石塁を築いており、戦国時代の築城と思われます。
この北主郭は、28m×25mの規模で、北側に土塁があり、その東に一段下がって小郭があり、この小郭の下方には北主郭よりやや小規模な郭があります。
北主郭の背後及び南主郭との間は、空堀によって切断しており、西側には南主郭の南端直下にかけて、長さ12m~15m、3m~4m、高さ1mの石塁を7列配しています。これを地元では七条七畝と呼んでおり、竪堀に代わる防備施設として薬かれたようです。
南主郭の規模は、20m×15mで、北西側に土塁を設けています。
南主郭から一段下がって、 南と北側に小郭を設けているほか、西南側にも二段の小郭を配しています。
このように茶臼城は城としては、小規模ですが突出する丘陵地形を利 用して、南・北の両主郭を中心とに、小郭・空堀・石塁を配備した堅固な山城です。
南主郭の近くには、茶日岩と云って茶臼によく似た巨大な岩が立っています。この岩の名をとって茶臼城になったと言う伝説もあります。
大手は、城の西側から入るナメラ谷と呼ばれる谷を登ってくるが、こ の谷の対岸には、見張りの岩と伝える遠見岩、兜岩などがあり、伝説の多く残る山城跡です。

三和町敷名振興区

2018年04月23日 安那備後守はるか
黒川城

(遺構)
墓所あたりから登城すると柵があり隅きりから入ると石積みが見えてきます。一部、墓所のようなものもありました。曲輪もいくつか見ることができ大手道と思われるところにはうっすら食い違い虎口のようなものも見られる。

本城より北側方面にある黒川明神山城の方が知名度が高く、自然の村やクロスカントリーなどが行われていて公園などもあり、中腹にてお弁当を食べました。

話を聞こうと世羅観光センターに行きましたが誰一人、黒川城のことをご存知ありませんでした。

(案内)
本城に行く為の看板、案内板が全くありません。上がれるところを探すのに周回しました。美波羅川の方の道路沿いに現代の墓所があり、ここ辺りから登城出来ます。フォトにも登城位置をアップしているので参考にして下さい。

2014年07月02日 青き巨星弾正少弼かみ
黒川城

黒川城はこれといった説明板がないので、日本城郭大系13巻を持ってせらにし図書館へ行き、字の城山を確認して付近の人から場所を聞いて登城しました。

本丸跡付近は石垣がよく残っており、道も登りやすかったです。本丸跡を中心に北側、南東側、南西側には郭跡が見られ、それぞれ井戸の跡もありました。

なお地元の話では、現在城山は石川さんとおっしゃる方の所有物です。私は家の方と会ってお話をさせて貰いましたが、奥様が本丸跡にある石垣を教えて下さりました。奥様は「殿さんの屋敷跡」と呼んでおられました。

黒川城の周辺スポット情報

 茶臼城(周辺城郭)

 茶臼城(周辺城郭)

 高八山城(周辺城郭)

 国光城(周辺城郭)

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