太閤ヶ平陣(たいこうがなるじん)

太閤ヶ平陣の基本情報

通称・別名

太閤ヶ平砦

所在地

鳥取県鳥取市帝釈山

旧国名

因幡国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

豊臣(羽柴)秀吉

築城年

天正9年(1581)

主な改修者

主な城主

豊臣(羽柴)氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、竪堀、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(鳥取城跡附太閤ヶ平)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

鳥取城(鳥取県鳥取市)[1.4km]
丸山城(鳥取県鳥取市)[3.2km]
妙見山城(鳥取県鳥取市)[5.0km]
新山城(鳥取県鳥取市)[5.3km]
二上山城(鳥取県岩美郡)[6.6km]
布勢天神山城(鳥取県鳥取市)[7.3km]
桐山城(鳥取県岩美郡)[9.8km]
山崎城(鳥取県鳥取市)[10.5km]
鵯尾城(鳥取県鳥取市)[10.6km]
防己尾城(鳥取県鳥取市)[11.2km]

太閤ヶ平陣の解説文



太閤ヶ平(たいこうがなる)は、鳥取県鳥取市百谷字太閤ヶ平にあった戦国時代の付城(前線基地)。天正9年(1581年)に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による第二次鳥取城攻撃の際に造営された。秀吉の陣城跡は「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平」として、1957年(昭和32年)に鳥取城と並び国の史跡に指定されている[1]

歴史 

織田信長の命を受けて中国経営に邁進する秀吉は、一度支配下に入れておきながら再び毛利氏側に立った因幡国鳥取城の攻略を決意し、天正9年(1581年)6月25日に3万の大軍を率いて居城・姫路城を進発した。7月12日には早くも鳥取城の包囲陣が完成している。対する鳥取城には毛利氏から派遣された勇将・吉川経家が2千の将兵とともに守りを固めていた。

秀吉は、標高263メートルの鳥取城の東方・標高251メートルの帝釈山上に本陣を構えた。羽柴秀長(のちの豊臣秀長)を初めとする配下の諸将たちが、毛利方の鳥取城・雁金山城丸山城の3つの出城を楕円状に取り巻いて、山嶺から城下まで延長12キロメートルにおよぶ長囲の陣を敷いた。秀吉軍は完全包囲によって城内の糧食を断つ持久戦の構えを取るとともに、毛利方の援軍を予測し、毛利方主力との決戦も想定した配陣となっている。

これまで、秀吉は鳥取城攻撃にあたって若狭国の商人を使って因幡国内の米を高値で買い集めたことで、鳥取城に対する経済封鎖を行ったとされてきた。近年になって、織田軍は次に述べるような3重の厳重な包囲網で鳥取城に対する経済封鎖を行っていたことが明らかになった。これは鳥取城に対する数年がかりで構築した大規模な経済封鎖だった[2]

鳥取城に対する包囲網

1.本項で述べる太閤ヶ平を中心とした包囲網。 2.毛利方に属していた、賀露港・二上山城・雨滝七曲城・市場城・生山城・船岡城景石城若桜鬼ヶ城・弓河内城鹿野城を攻略したことによる、因幡国一円に及ぶ包囲網。 3.毛利方に属していた東伯耆の南条元続、南美作を支配していた宇喜多直家を調略したことによる、中国地方の東半分に及ぶ包囲網。

攻城戦は4か月に及んだ。織田方の巧みな経済封鎖によって食糧の不足していた鳥取城内では、籠城2か月目にして早くも食糧は尽き、牛馬や壁土、果ては餓死者の人肉まで奪い合うという飢餓地獄を現出した。城将・吉川経家は惨状を見るに忍びず、自らの命に替えて城兵を救うという条件で10月25日に城下の真教寺で自刃、鳥取城は開城し包囲陣は解かれた。

鳥取城を落とした秀吉は城将として宮部継潤を入れ、次いで伯耆国に進み馬の山まで進攻していた吉川元春と対陣している。しかし、冬を迎えるとともに毛利方の装備が十分なことを知った秀吉は、急遽撤兵、11月8日に姫路に帰城している。その後、秀吉が因伯の地を訪れることはなかった。秀吉が築いた陣城群は、江戸中期頃まで軍事施設として認識されており、藩政期の鳥取城絵図にもその旨の記載が残っている。

秀吉の本陣が置かれた帝釈山は「本陣山」と呼ばれるようになり、現在はハイキングコースが設けられている。また本陣跡裏手の広場には、マイクロウェーブの中継所がある。

遺構 

秀吉が本陣を置いた帝釈山を扇の要として、南西方向の栗谷と北西方向の円護寺、さらに浜坂集落にかけて、秀吉配下の諸将の陣城跡や規模の大きな土塁・竪堀・空堀が残る。戦国末期の陣城群として大変貴重な遺構である。しかし史跡指定を受けていない円護寺地区とその近くの八幡山、浜坂地区は近年のベッドタウン化により宅地造成が進んでおり、多くの陣城が消滅の危機に瀕している。

太閤ヶ平

秀吉の本陣跡で、鳥取城本丸から1.4キロメートル東に位置する帝釈山頂にある。内陣は東西47メートル、南北36メートルで、大手虎口が南口、搦手虎口が東側に開かれている。鳥取城に相対する西側の土塁上の両端には、各1か所ずつ合計2か所の櫓台がある。大手口両側には水が貯えられたと見られる薬研堀が掘られている。搦手虎口の外には兵馬の駐屯地があったと見られる広場があるが、現在ここにはマイクロウェーブの中継所が立てられている。本陣を囲んで大小の削平地が十数段に渡って築かれ、本陣足元を完璧に防備している。

織田軍配下の一部将にしては非常に大規模かつ緻密な構造の陣城であり、当時中国出陣を考えていた信長を迎えることも想定していたとの説も出ている[3]

羽柴秀長陣

秀吉の弟・秀長の陣所は秀吉本陣の北西、標高216メートルの通称大平(おおなる)の山上にある。東西に細長い長さ70メートルの陣所である。

空堀

秀長陣から秀吉本陣にかけて、延長700メートルに及ぶ大規模な空堀が構築されている。これは秀吉が毛利本隊との決戦を想定した防衛ラインと考えてよい。

栗谷南嶺之陣

秀吉本陣のあった帝釈山頂より南西方向に伸びる栗谷の山嶺には、10か所に及ぶ付城群の遺構が明確に残る。秀吉本陣近くは彼の直臣が守りを固めたと考えられる。長谷川秀一陣、堀尾吉晴陣、仙石秀久陣のほかは守将が伝えられていないが、遺構の保存状態はきわめてよく、戦国末期の付城群を調査研究する上で、大変貴重な遺構である。

水道谷奥之陣

長田神社から分け入っていく谷の奥の小砦群で、鳥取城に相対する最前線である。ここも遺構の保存状態が良好である。

円護寺之陣営

桑山重晴、垣屋光成、三好信吉(のちの豊臣秀次)らの諸将が陣を構えた。円護寺地区は宅地化が進んでおり、すでに3つの付城跡が消滅している。

土塁

太閤ヶ平のある本陣山から峰続きの標高120メートルの尾根上に、全長380メートルに渡って高さ1〜2メートルの土塁が連なっている。土塁の裏側は幅30メートル以上の広い削平地となっている。これも毛利軍との決戦を想定した迎撃線と考えてよい。

三好信吉陣

後に秀吉の養子となった三好信吉の陣。一説によると、宮部継潤の陣所跡ともいわれる。鳥取城の出城だった丸山城に近い八幡山にある。完全な土塁方式の陣城が残っているが、これも宅地造成により消滅の危機にある。

浜坂之陣営

覚寺から浜坂にかけての丘陵上に付城が連なっていたが、宅地化や水道設備の建設などで破壊が進行している。

垣屋恒総陣

鳥取城攻略後、桐山城を与えられた垣屋恒総の陣。宅地造成により消滅した。

青木勘兵衛陣

宅地造成により消滅した。

平地陣

平地陣は鳥取の城下町や耕地となったため、遺構は残っていない。以下の諸将が湊川(旧袋川)沿いに展開した。

  • 木下家定:鳥取市中町
  • 中村一氏:鳥取市掛出町
  • 少阿弥:鳥取市掛出町
  • 山名豊国:鳥取市榎町、鳥取市役所本庁舎付近
  • 荒木重堅:鳥取市本町1丁目
  • 神子田正治:鳥取市元魚町3丁目
  • 蜂須賀家政:鳥取市玄好町、玄好遊園地付近
  • 黒田孝高:鳥取市相生町1丁目
  • 木村定重
  • 加藤光泰
  • 杉原家次:鳥取市江津
  • 吉川平助:鳥取市江津。守将・吉川平助は防己尾城攻城戦で戦死した。

金山城およびその周辺の砦群

金山城は羽柴秀吉の来攻に備えて築かれた鳥取城の支城である。本城である鳥取城と賀露港を結ぶ兵糧運搬路の中継点だったが、宮部継潤の攻撃で落城し、鳥取城落城を早める結果になった。近年の調査で、雁金山城およびその周辺の砦群にも、鳥取城に向けて重厚な土塁が築き足されていることが明らかになった。雁金山城が秀吉軍の手に落ちた後、鳥取城のより一層の孤立化をねらって改修されたものと考えられている。

太閤ヶ平陣の口コミ情報

2024年01月04日 RED副将軍
太閤ヶ平陣



羽柴秀吉が鳥取城攻略のために築いた本陣⚔

オススメ度 ★★★★★

1581年に羽柴秀吉により第二次鳥取城攻めの際に築かれた陣城。
1580年に羽柴秀吉は第一次鳥取城攻めにおいて、3か月の籠城戦の末に鳥取城主の山名豊国は和議により降伏し織田信長に臣従します。
しかし、直ぐに毛利氏が鳥取城に来訪し山名豊国は再度降伏。その後、山名豊国は織田信長との内通が発覚し追放。山名氏の旧臣は毛利氏に付き鳥取城には吉川経家が入城したことにより、羽柴秀吉は再度の鳥取城攻略をすることとなり、本陣として築いたのが太閤ヶ平陣です。
羽柴秀吉は米を高値で買い占め、毛利勢の兵糧供給路を封鎖。さらに鳥取城の兵は約1,500人に対して、付近の農民2,000人以上を城に追いやり、鳥取城の人数を大幅に増やします。徹底的な兵糧攻めにより凄惨な飢餓となり、吉川経家は城兵を助けることを条件に開城し自刃。
陣城であり戦いが終わると役目を終えました。

見所
鳥取城の久松山から東に約1.4kmに向かい合う標高251mの本陣山頂部に築かれています。
主郭は土塁と空堀が巡り、東側と南側に虎口が開口し土橋が架かります。鳥取城に向き合う西側の土塁上は櫓台となっています。
また鳥取城側には総延長700mにわたる大規模な二重竪堀や竪土塁が築かれており鳥取城への登山ルートでも一部確認することができます。

鳥取城から太閤ヶ平まで登山ルートが付いています。途中にある他の陣跡や二重竪堀等を散策すると半日かかりとなりました。

写真
①〜④主郭を巡る土塁と空堀
⑤主郭に架かる土橋
⑥⑦二重竪堀
⑧竪土塁

2023年10月23日 みその対馬守
太閤ヶ平陣



鳥取城、二の丸から本丸を経て、太閤ケ平まて歩くツアーに参加しました。当日、雨が降り、かなり大変でした。途中、トイレが無くて困りました。

太閤ケ平から歩いて下の神社まで行きましが、道は良いけど距離は有ります。この距離で、こんな巨大な陣城を構えて、驚きました‼️太閤ケ平から鳥取城🏯の本丸の眺めはとても良いです。秀吉もこの眺めを見たと思うと感慨です。途中の二重堀切は見応えあります。

2022年04月12日 土居式部大輔宗瑞
太閤ヶ平陣



三木城攻めの陣城と比べ、圧倒的な土木量で、堀も深く土塁も高いです。

2021年10月03日 なお左兵衛尉
太閤ヶ平陣



麓の鳥取東照宮よりゆっくり登り1時間30分かかりませんでした。空堀と土塁の高低差4mあります。400年以上前のものとは思えない程はっきり残ってました。時間があれば尾根沿いを歩き鳥取城山頂の本丸跡まで歩きたかったがタイムアップでした。(1時間くらいで行ける)

2021年06月08日 ビーンズマン中務大輔
太閤ヶ平陣



登りやすい山。アスファルトで舗装された道を登るので少し安心。きちんと土塁で囲まれた中世の城の跡が残る。

2019年05月09日 d.f.t.渡島守
太閤ヶ平陣



左手前の土塁が櫓台、右奥の土塁切れ目が大手虎口。しっかり横矢がかかっています。

2019年05月09日 d.f.t.渡島守
太閤ヶ平陣



搦手付近のうねる土塁。背丈の倍以上です。鳥取城麓から1時間半。険しい道でしたが、土の遺構好きな方なら決して損はしません。

2019年03月15日 三好河内守
太閤ヶ平陣

山頂まで舗装された道です。日頃の獣道に比べるとすごく歩きやすいです。じっくり見て、往復二時間見ておいてください。

2018年04月16日 織田上総介晃司
太閤ヶ平陣

おうちだに公園に駐車場があります。ただトイレのある駐車場は17:00で閉まりますので少し奥にある駐車場に停めるのがいいでしょう。

舗装された道なので歩きやすいかと思います。ウォーキングやジョギングコースとして地元の方も利用してます。とはいえ結構距離があるので夏場は水をお忘れなく。

トイレも麓にしかありません。

おうちだに公園は地元の方の努力で蛍の飛び交うところです。決してゴミなどは捨てないように。

2016年01月11日 梨畑中務卿四十郎
太閤ヶ平陣

下調べが甘く車で近くまで行ってちょこっと登るくらいと思って舐めてました。どこから登るかも分からず先人の口コミのおかげで非常に助かりました。ハイキングコース(ランニングの人も)で大勢の人がいました。登り45分、下り30分でした。片道1時間みておくべきでしょう。広大な陣跡でした。戦時の臨時の土城としては日本最大らしい。信長を迎えるつもりもあったとの解説もうなずける。鳥取城久松山がすぐ近くに見えます。久松山の方が低く見えましたが後で調べると太閤ヶ平が若干低いようです。

2014年03月30日 【隠者】史学会帰新参
太閤ヶ平陣

太閤ヶ平に行くには、鳥取市歴史博物館のやまびこ館から行くのが分かりやすい。ふもとの入口から山頂の太閤ヶ平までは舗装された車道がある。関係者以外は車は禁止。麓から山頂までは比高230Mで実測で3.4キロ歩いた。立地は完全に山城である。トイレは麓にしかない。 太閤ヶ平と鳥取城の久松山との間には遊歩道がある。 太閤ヶ平までの往復で地元の人が結構いた。

太閤ヶ平陣の周辺スポット情報

 大手口(遺構・復元物)

 搦め手口(遺構・復元物)

 二重竪堀(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 土塁?(遺構・復元物)

 (遺構・復元物)

 陣城Ⅰ(周辺城郭)

 駐車場(駐車場)

 展望所(その他)

 土橋状地形(その他)

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