楼ノ岸砦(ろうのきしとりで)

楼ノ岸砦の基本情報

通称・別名

楼の岸砦

所在地

大阪府大阪市中央区石町2-2(推定地)

旧国名

摂津国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

織田信長

築城年

元亀元年(1570)

主な改修者

主な城主

稲葉氏、中川氏、本願寺衆

廃城年

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

周辺の城

大坂西町奉行所(大阪府大阪市)[0.5km]
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楼ノ岸砦の解説文

楼ノ岸砦は、織田信長と本願寺勢力が戦った石山合戦の際、織田信長が築いた砦である。

稲葉良通、中川重政が守ったが本願寺勢力の攻撃により奪取され本願寺勢力の防衛拠点となった。本願寺落城の際に廃されたと考えられるが詳細は不明である。

現在、坐摩神社となっている場所が砦跡とされるが、特に遺構などは残っていない。

楼ノ岸砦の口コミ情報

2023年10月29日 板垣駿河守信方
楼ノ岸砦

適塾(適々斎塾)があった場所の近くです。

2022年06月13日 尼崎城大膳大夫一口城主
楼ノ岸砦



5月19日、講習会でエル大阪に行くことになり二日間の座学はしんどいなと思っていたところなんとすぐ近くに楼の岸砦があることが判明。昼休憩にさっそく行ってみました。エル大阪南館を出てすぐの場所にありましたが現在は更地になっていました。エル大阪の中には大坂城の出土品が展示してありました。初日の講習終了後、大阪東町奉行所、大阪城、大阪西町奉行所と散策してきました。楼の岸砦近くの天満橋から中之島方面の夕陽と中之島のバラ園の写真もあげておきます。

2021年04月03日 御右衛門督
楼ノ岸砦



神社の左側が崖になっていて、以前はそこまで川だったようです。(下の道路脇に船着場跡の碑があります)ビルの間にあるので、これまでは気がつきませんでした。

2021年01月15日 源陸中守@ポンコ2…
楼ノ岸砦



楼ノ岸という名の由来は、大阪府全史に
「樓の岸といへるも亦渡邊岸の一名なり、その上方に高樓の見えたるより起れるの稱ならん、一に黒牢潟とも呼べり。」と、
渡辺津にあった熊野街道の起点の岸に駅楼がおかれたため生れた俗称と言われております。
余談ですが、渡辺津は渡辺姓発祥の地との説もあります。

楼ノ岸砦跡は、坐摩神社行宮(いかすりじんじゃあんぐう)に位置情報がありますが、今は御堂筋に面した南御堂の西側にある坐摩神社がありました。
坐摩神社は、神功皇后が新羅より御帰還の折、淀川南岸の渡辺の地(現在地付近)に奉祀されたのが始まりとされています。同神社は、住吉大社とともに摂津国一ノ宮とされる神社で、平安時代の「延喜式」に記載されている時から、豊臣秀吉の大坂築城により1582年遷座を命じられるまで同地にありました。

砦があった期間の神社の存在や行宮より比高のある地形より、砦は熊野街道東側の今の北大江公園にあったように思われます。

楼ノ岸砦のその後ですが、秀吉が大坂築城の最中、宣教師オルガンティーノと高山右近が、城の近くに教会用地が欲しいと申し出、秀吉は楼ノ岸付近に約2千坪の土地を与えました。
1585年に教会(南蛮寺)が完成しましたが、伴天連追放令に伴い1588年に破却されました。
その後、天満川崎にあった大阪本願寺の京都移転(1591年)に際して、在坂の門徒により楼ノ岸に坊舎が設けられました。その後、秀吉が最晩年に大坂城三ノ丸普請に着手したため、1597年に坊舎が現在の北御堂(津村別院)の地に移転しました。

なお、北大江公園は、江戸時代末期から明治初頭の料亭「三橋楼」跡で大久保利通と木戸孝允の会談の場となり、料亭移転後は1945年6月の空襲で焼失するまで、日本ハリストス正教(ロシア正教)の教会がありました。

フォトは、高倉筋と言われた土佐堀通から北大江公園に続く石段と、定番の行宮です。

リア攻めや散策の際のご参考まで。



2020年09月27日 縫殿助きみくん
楼ノ岸砦

京阪天満橋駅が最寄り駅になります。土佐堀通を西へ徒歩五分ほどです。
ファミリーマート向かいの三叉路を南に入り、左の辻を一本越えた左側、坐間神社
行宮(坐間神社旧鎮座地)になります。

2018年03月27日 勘解由次官ささき
楼ノ岸砦

大阪城の近くにあります。大阪城の周りには大坂の陣で建てた砦が多くありますが、この砦は大坂の陣のものではなく、石山本願寺と戦うために織田信長が建てた砦です。現在は坐摩神社(いかすりじんじゃ)が跡地とされてるのみで、遺構は残っておらず石碑や説明板すらありません。この神社にある冠木門が当時の砦跡を思わせるぐらいです。大阪城の近くか天満橋駅の近くに駐車しとけばすぐに行けます。

2016年09月17日 橘若狭守次郎吉
楼ノ岸砦

楼ノ岸砦は戦国時代、織田信長勢と本願寺衆勢の戦いの際に織田勢が築いた砦です。後に本願寺衆勢が織田勢から奪取して、本願寺衆勢の防御の要の砦となったそうです。

どこにあったかも詳しいことは分かっていませんが、坐摩神社と北大江公園の2つの説があります。どちらかと云うと坐摩神社説の方が有力だと言われています。 このアプリが地図で示しているのは坐摩神社の方です。

実際に坐摩神社に行ってみると、付近の土地より一段上になっていて、まるで砦跡と思わせるような地形でした。遺構は何もありませんでした。

2016年06月24日 源陸中守@ポンコ2…
楼ノ岸砦

地下鉄もしくは京阪天満橋駅から土佐堀通を西へ進み、日刊工業新聞とエルおおさかの間の道を南(左折)すると坐摩(いかすり)神社行宮という神社があり、城めぐりではここが楼ノ岸砦として認定してます。ここまで徒歩5分前後です。

土佐堀通の道中、永田昆布店をすぎたあたり左側に石段が見え、そばにいくと急な石垣があります。石垣は打込接ぎや布積、算木積み等の複合となっているので、築かれたのは江戸初期だと思います。この辺りは以前八軒浜の船着場だったとのことで、石山本願寺があった当時は岸壁だったのではと推察させます。

近くのエルおおさか建設時に、豊臣時代の屋敷跡が見つかり、発掘された桔梗紋の瓦から加藤清正のものと推定され、建物内では瓦等が展示、発掘された石組みなどの遺構が一部保存道沿いに保存されてます。
また、坐摩神社行宮境内にはステンレスの檻に守られた「神功皇后の鎮座石」を見ることができます。

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楼ノ岸砦の周辺スポット情報

 天満興正寺御坊跡(寺社・史跡)

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