二子城(ふたごじょう)

二子城の基本情報

通称・別名

飛勢(とばせ)城

所在地

岩手県北上市二子町渋谷他

旧国名

陸中国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

和賀氏

築城年

不明

主な改修者

主な城主

和賀氏

廃城年

天正18年(1590)

遺構

曲輪、腰曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

黒岩城(岩手県北上市)[2.7km]
花巻城(岩手県花巻市)[6.8km]
毒沢城(岩手県花巻市)[8.2km]
岩崎城(岩手県北上市)[9.8km]
小瀬川館(岩手県花巻市)[10.9km]
野手崎城(岩手県奥州市)[11.6km]
寺林城(岩手県花巻市)[15.6km]
鳥海柵(岩手県胆沢郡)[15.9km]
胆沢城(岩手県奥州市)[16.9km]
豊田館(岩手県奥州市)[17.5km]

二子城の解説文



二子城(ふたごじょう)は、 岩手県北上市にあった日本の城。領主・和賀氏一族の居城。別名・飛勢城(とばせじょう)。

概要 

陸奥国和賀郡二子村に所在した。城跡は北上川湾曲部西岸の丘陵地帯あり、二子という名は地内北西部に小山が二つ並んでいることによる。丘陵東側には宿(しゅく)と呼ばれる城下町が形成され、二子城の中心部分に城主の居館跡(白鳥館)が存在し、周辺には家臣団の屋敷が配置されていたとみられる。現在、市立公園飛勢城跡として整備されている[1]

歴史・沿革 

室町時代以降、和賀郡惣領職として郡内を治めた和賀氏の居城跡で、築城年代は不明であるが、和賀氏の本拠地ははじめ北上川の対岸の更木(北上市更木町)に本拠地があったとされる(1797年刊『邦内郷村志』)。

二子城が和賀氏の本城となるのは、応永8年(1401年)4月28日に和賀時義が和賀郡惣領職に補せられた[2]直後とする説もある。天正18年(1590年)の奥州仕置で和賀氏が所領没収、城地追放処分を受けると、二子城には浅野長政の家臣・後藤半七が駐留したが、旧領回復を目指す和賀氏・稗貫氏が旧臣を集めて挙兵(和賀・稗貫一揆)、二子城を奪還した。しかし翌年の再仕置で蒲生氏郷勢に攻略され、当主の和賀義忠は逃亡途中に殺害された。天正20年(1592年)の『諸城破却書上』には、「二子 平城 破 信直抱 代官 川村左衛門四郎」とある。

岩崎一揆

慶長5年(1600年)、南部氏が最上出陣中、伊達氏の支援を受けた和賀忠親は再度旧領回復を目指して挙兵(岩崎一揆)し、忠親は二子城を拠点として南部氏と戦った。和賀勢は花巻城を急襲(花巻城の夜討ち)し、三の丸、二ノ丸を制圧して本丸に迫ったが、援軍を得た南部勢に敗れて二子城を放棄、和賀勢は拠点を岩崎城に移した。

その他 

大手門は、南部氏が花巻城に移したとされている。

参考資料 

  • 【書籍】「角川日本地名大辞典 3 岩手県」
  • 【書籍】「日本歴史地名大系 第3巻 岩手県の地名」

二子城の口コミ情報

2023年07月05日 ファン掃部助トム治郎
二子城



北上駅〜花巻まで徒歩で和賀氏ゆかりの城を攻めました。和賀氏初期の本拠地黒岩から北上し北上川が蛇行する台地の上に二子城があります。八幡神社に通じる階段を登り尾根道をしばらくいくと見晴台です。素晴らしい眺めです。が、こちらは発展場として有名なスポットのようで、攻城の際には子連れは避けたほうがよいと思います。私も目撃してしまい、不快な思いをしました。

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