三戸城(さんのへじょう)

三戸城の基本情報

通称・別名

留ヶ崎城、三戸高城

所在地

青森県三戸郡三戸町梅内城ノ下

旧国名

陸奥国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

独立式層塔型[3重4階/1967年築/RC造模擬]

築城主

南部晴政

築城年

永禄年間(1558〜1570)

主な改修者

蒲生氏郷

主な城主

南部氏

廃城年

貞享年間(1684〜1687)

遺構

曲輪、腰曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、門、御台所

指定文化財

国史跡(三戸城跡)、町文化財(移築門[龍川寺山門、法泉寺山門、観福寺山門])

再建造物

模擬天守(三戸町立歴史民俗資料館)、石碑、説明板

周辺の城

聖寿寺館(青森県三戸郡)[3.4km]
目時館(青森県三戸郡)[3.7km]
四戸城(岩手県二戸市)[8.5km]
剣吉城(青森県三戸郡)[9.5km]
田子館(青森県三戸郡)[11.3km]
九戸城(岩手県二戸市)[13.1km]
軽米城(岩手県九戸郡)[17.6km]
櫛引城(青森県八戸市)[17.6km]
尻内城(青森県八戸市)[18.4km]
島守館(青森県八戸市)[18.6km]

三戸城の解説文



三戸城(さんのへじょう)は、青森県三戸郡三戸町梅内にあった日本の城。通称留ヶ崎城。城跡は国の史跡に指定されている。

概要 

三戸城跡は、三戸町の市街地ほぼ中央に位置し、馬淵川と熊原川の浸食によって形成された河岸段丘上[1]にある連郭式山城である。両河川を天然の水堀とし、周囲から孤立した台地で、低地との比高差は約90メートルを測り、規模は東北から西南方向に約1.5キロメートル、北西から南東方向に約400メートルである。

近世の城絵図によると、城の中心に位置する大御門から東側は本丸をはじめとする城の主要部で、大手門から本丸手前までは一門や重臣の屋敷、北東側(裏手)には直臣達の屋敷、そして城下の周りにその他の家臣達が配置されている。

平成元年(1989年)には山麓に綱御門が復元された。

周辺は城山公園として整備されている[2]。昭和42年(1967年)に天守風の建物が築かれ「温故館」の名で歴史資料館となっている。

2022年(令和4年)3月15日には三戸城跡として国の史跡に指定された[3][4]。しかし、天守風の建物の「三戸城温故館」については文化庁から史実に基づかない建造物だとして将来的な撤去を求められている。

沿革 

伝承によると領主南部晴政の代の天文8年(1539年)に、聖寿寺館(本三戸城)が家臣の放火により焼失、その後この地に築いたものと伝えられる(下斗米家譜)。同時代において、三戸南部氏が勢力を拡大し続け、肥大化した組織の統制をはかる根城が必要となったため、当城へ居を移したとする見方もある。

晴政・晴継が相次いで没すると、天正10年(1582年)田子信直(南部信直)が三戸南部氏の家督を継ぎ三戸城へ入城、信直の代へと変わる。

天正18年(1590年)に小田原征伐へ参陣した信直は豊臣秀吉所領安堵の五カ条からなる朱印状が交付され、南部信直は領内にある家中の城館の破棄を命ぜられ、また家中の妻子は、南部氏の居城下に集合を厳命されていることから、三戸城が南部氏の居城となったと考えられる。

天正19年(1591年)九戸一揆平定後、奥州仕置軍を率いた蒲生氏郷らにより、三戸城は近世城館のシンボルといえる石垣を持った城へと普請される。その際に本丸に三層三階の御三階櫓が上げられたと考えられている。

寛永10年(1634年)に盛岡城が居城と定められて、三戸城は御古城と呼ばれ、城代が預かる形となったが、石垣の補修や御掃除奉行が設置されるなど、藩主から管理を疎かにしないように働きかけがなされている。

貞享年間(1684~88年)、城代が廃されて三戸代官の支配となった。

現在、旧城門のうち、表門、搦手門、代官所門が三戸町指定有形文化財[5]

町指定文化財の旧表門は町内の龍川寺に、旧搦手門は同じく町内の法泉寺に移築されている。

参考画像 

参考文献 

  • 【書籍】「角川日本地名大辞典 3 岩手県」
  • 【書籍】「日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田」

三戸城の口コミ情報

2024年01月29日 マグロ常陸介祐平
三戸城



2022年に国の史跡に指定された、南部氏が盛岡に移る前のお城です。蒲生氏郷らにより石垣を使用した近世城郭となり、一国一城令による廃城を免れ、17世紀後半まで城として存続したようです。

大手道を復元された枡形の綱御門(写真2枚目)をぬけると左右に段々になった重臣の屋敷の曲輪群があり、鹿のいる石亀邸の上段の曲輪に南部光行公を祀る糠部神社と資料館でもある模擬天守の温故館(写真3枚目、冬季休館中)があります。
神社の裏には空堀(写真4枚目)が見られ、石垣の残骸が残る大御門(写真6枚目)の先が本丸となります。
本丸の東側には土塁の痕跡(写真5枚目)が見られます。
本丸には当時三階櫓があったようです。
先に進むと左側に展望の良い淡路丸、右側には池や赤橋のある庭園風の曲輪があり、一段下ったところに、城の裏門で崩れていても美しさを感じる石垣の鍛冶屋門(写真7,8枚目)があります。

模擬天守や復元門とは対象的に、崩れるにまかせた廃城感をかもし出す石垣がなんとも言えない、楽しめるお城です。

2023年09月03日 ムシの王様
子持石[三戸城  碑・説明板]



山梨県南部町リスペクト、いわゆる富士川の恩恵、それ、いわゆるご縁。

2023年06月30日 RED副将軍
三戸城



北奥羽一帯を支配した南部氏の居城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。永禄年間(1558年〜1570年)に南部晴政により築かれたとされます。
三戸南部氏は、甲斐国巨摩郡南部郷が出自であり、1189年の奥州藤原氏討伐の戦功により源頼朝から糠部の地を拝領し土着したのが始まりとされます。
1539年、南部氏家臣の赤沼備中による放火で居城であった聖寿寺館が焼失。24代当主の南部晴政が新たに築いて移った居城が三戸城です。
1590年、豊臣秀吉による小田原征伐において、当主の南部信直は参陣した功績により南部七郡の所領は安堵。しかし、城館の破却を命じられたため、三戸の城下に移転をしました。
1591年、南部信直との家督争いで確執のあった九戸城の九戸政実が反乱を起こします。南部氏内部だけでは収めることができず、南部信直は豊臣秀吉に援軍を要請。豊臣秀次、浅野長政らの援軍を受けて九戸政実の乱を鎮圧しました。
その後、三戸城は蒲生氏郷により、石垣を持った近世城郭へと改修され、本丸には三層三階の御三階櫓が築造されました。
南部氏は居城を九戸城、更には盛岡城へと移して行きましたが、三戸城には城代、代官が置かれ、元和の一国一城令の後も破却されずに長く残りました。

見所
馬淵川と熊原川の合流地点にある比高90mの独立丘陵上に築かれています。
個人的に青森ナンバーワンの山城です。特に搦手の鍛冶屋御門跡が素晴らしく、右一回、左二回、右一回を折れ曲がる厳重構造で公園整備がされる中、廃城感が見事に残っています。付近に鍛冶屋敷の敷設があったことが鍛冶屋御門の由来です。
模擬天守から離れますが必見の遺構です。御鷹部屋と南部利康邸は空堀で隔てられていますが、城山公園らしくキレイに整備されています。

2022年03月09日 河内守ささき
三戸城

三戸城に建てられている天守ですが、解体される予定とのこと。訪れる方はお早めに。
↓以下ニュース本文
三戸町教育委員会は8日、国史跡指定が内定した三戸城跡(城山公園)の指定手続きの中で、同城跡に立つ天守風の歴史資料館「三戸城温故館」について、史実に基づかない建造物だとして文化庁から将来的な撤去を求められていることを明らかにした。直ちに撤去を求められているわけではないとし、時期を見極めて解体する方針を示した。

2021年07月23日 大納言Z武蔵守369
北信愛屋敷跡[三戸城  遺構・復元物]



南部家の重臣、北信愛の屋敷があった場所。信愛は近世南部家の基礎を築いた武将。

2021年07月23日 大納言Z武蔵守369
鹿園・兎舎・鶏舎[三戸城  その他]



石亀七左衛門邸があった場所に動物小屋があります。

2021年06月28日 かな民部大輔
三戸城



山に大きく『三戸城』と看板があったので、迷わず行けました…が………ナビの誘導で、裏からの細いぐにゃぐにゃ山道を登って駐車場へ…でも、広くてまっすぐな道が反対側にありました…もうナビは信用しない!こじんまりとした櫓のかわいいお城でした♪

2020年10月15日 まんま
三戸城

資料館と天守は、つながってないので資料館に先に行って入場料を払って下さい。

2020年04月11日 弾正忠Snow
三戸城

4/15から5/06までは入山禁止となるそうです。
御城印もらえる資料館も閉鎖のようです。

2019年05月07日 織田上総介晃司
三戸城

城山公園に広い駐車場とトイレがあります。

模擬天守に目がいき、復元の綱御門とで終了…と。
ところがどっこい!遺構がかなり残ってて見所満載の城です。

この辺りは三戸や八戸など「〜戸」と着く地名が多く、1〜9の中で4以外は地名としてあります。(一戸町、二戸市、三戸町、五戸町、六戸町、七戸町、八戸市、九戸村)



2018年05月08日 カーネル
三戸城

青い森鉄道の三戸駅から

駅を背に西へ向かい、県道258号で左折です

県道45号と合流する頃には、正面の山腹に三戸城の看板が見えます

久慈町バス停の先にある、東北自然歩道で左折します。川を渡り、切通しの住宅地を抜けた先で、東北自然歩道の標識があるので、右折します

山道を登ると右斜面にでてくる石垣がかっこよすぎます。鍛冶屋御門跡を経て城山公園に入ります

公園内にちょいちょい『~跡』の標識があるのがうれしい。糠部神社をお参りし、近くの空堀がいい感じに残っています

模擬天守閣の西側へ下り、プチ動物園と屋敷の数々を経て綱御門に下ります

門を抜けて登り口とは反対側の舗装路にでて、駅に戻りました

往復で1時間45分くらいでした

2012年05月03日 大膳大夫マイリバ
三戸城

「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われた南部氏の居城に似つかわしくない残念な天守閣に愕然としたら、お口直しに綱御門までどうぞ(^^)d
三戸は11ぴきのねこシリーズの作者・馬場のぼるさんの故郷ということで、昨年訪城した際は城内の資料館で特別展を開催してましたよ

三戸城の周辺スポット情報

 土塁、欅御門跡(遺構・復元物)

 空堀(遺構・復元物)

 鍛冶屋御門(遺構・復元物)

 綱御門(遺構・復元物)

 武者溜(遺構・復元物)

 桜庭安房屋敷跡(遺構・復元物)

 大門跡(遺構・復元物)

 北信愛屋敷跡(遺構・復元物)

 鳩御門跡(遺構・復元物)

 道路脇の石垣跡(遺構・復元物)

 石垣跡(遺構・復元物)

 三層櫓跡(遺構・復元物)

 淡路丸跡(遺構・復元物)

 鍛冶屋敷(遺構・復元物)

 説明図(碑・説明板)

 子持石(碑・説明板)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 模擬天守(関連施設)

 温故館(関連施設)

 鹿園・兎舎・鶏舎(その他)

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