多賀谷城(たがやじょう)

多賀谷城の基本情報

通称・別名

下妻城

所在地

茨城県下妻市本城町(多賀谷城址公園)

旧国名

常陸国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

多賀谷氏家

築城年

寛正2年(1461)

主な改修者

主な城主

多賀谷氏、徳川氏

廃城年

慶長14年(1610)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(多賀谷城本丸跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

大宝城(茨城県下妻市)[2.4km]
関城(茨城県筑西市)[4.6km]
駒城(茨城県下妻市)[5.7km]
豊田城(茨城県常総市)[9.3km]
古間木城(茨城県常総市)[9.6km]
海老ヶ島城(茨城県筑西市)[10.0km]
多気城(茨城県つくば市)[11.1km]
逆井城(茨城県坂東市)[11.1km]
小田城(茨城県つくば市)[13.6km]
下館城(茨城県筑西市)[14.7km]

多賀谷城の解説文



下妻城(しもつまじょう)は、茨城県下妻市(常陸国関郡下妻荘)にあった日本の城。多賀谷氏の居城であったことから多賀谷城(たがやじょう)とも称し、地元では一般にこの名称を用いている[1]

城郭は広大で旧真壁郡下妻町の領域がすっぽりと収まるほどであった[2]。1950年代までは曲輪・濠・土塁跡が残っていたとされるが、1961年(昭和36年)に始まった都市計画事業を経て、現在では多賀谷城跡公園内にわずかに痕跡を残すのみとなっている。

概要 

城が完成した15世紀中頃は東西両館からなり、東館を本丸とする2廓の単純な構造であった[3]。その後多賀谷氏の勢力拡大に伴い城を北方向へ拡張していき、多賀谷氏7代の重経の頃(16世紀末から17世紀初頭)には南北1.5kmにおよぶ長大な城域を有するようになっていた[4]。この時代の下妻は常陸国西部最大の都市であり、城郭・城下町の規模や充実度の面で常陸国屈指の存在であった。

城跡は下妻市指定史跡となっており、カワラケ(素焼きの陶器)が出土している[5]。付近には本城・新屋敷・本宿・上宿・陣屋など城や城下町の名残が偲ばれる地名が残るが、宅地化の進行により、その遺構の一部は失われている。また下妻市役所の西に城跡公園がある[6]。城跡公園は1961年(昭和36年)からの都市計画事業により建設され、市民憩いの場となっている[7]。ここには1890年(明治23年)12月に建立された碑があり、表面に多賀谷氏7代140年の経歴が漢文で刻まれ、裏面に碑の建立費用を負担した旧臣の子孫264名の氏名が彫られている[8]

城郭の構造

平城であり[9]東西に沼と河川(小貝川・鬼怒川[10])、南方に湿地帯を控えていたことから、北方への防御態勢が重点的にとられ、秋田県立図書館が所蔵する「常陸国下妻城図」によれば北には土塁や濠が七重にも巡らされていた。これは単に北側に自然的障壁がなかっただけでなく、北方に多賀谷氏が敵対した結城氏や水谷氏の領地が存在したことが影響している[11]

城は館沼(たてぬま)によって東西に分断され、沼の東側に本城(本丸)・中城(二の丸)・三の丸・北城・南館(姫曲輪)を、沼の西側に西城を置いていた[12]。周囲に小野子(多賀谷一族の居住地)・虚空蔵曲輪等を配していた。城域は南北1,500m×東西900mであった。土を台地上に盛った土塁を複数築き(盛土)、土塁の周りの掘割には大宝沼から引いた水を満たし、主要な土塁は7つの橋で結んだ。これを「多賀谷七構え」という。

城下町の構造

飯田・石塚・片岡・渡辺などの姓を名乗る多賀谷氏の家臣は、城郭外延部の本宿・上宿・今宿(新宿)・坂本などに居住した[13]。本宿などは「宿」(宿場)である以上、商工業者(商人・職人)も居住していたが、家臣団の集住があり、城郭の一部としても機能していたと考えられる[14]。こうした城郭的機能を町場が有するのは下妻城特有のものでなく、結城城・山川城・海老ヶ島城などにも見られる戦国時代の関東地方の特徴的な城下町構造である。

北城の北にはタカジョウマチなどの小字が見られ、職人が居住していたと考えられる。初期の城下町は北方にある牛頭天王(現在の下妻神社)の門前町・大町(現在の下妻市下妻乙)とその東隣の西町を中心に発展し、重経の時代には大町の南に位置する三道地(さんどうち、現在の下妻市下妻丁)から新地まで拡大した。

歴史 

築城と城下の発達

『多賀谷家譜』によれば、康正元年(1455年)から多賀谷氏家(祥賀)が下妻荘に築城を開始し、6年後の寛正2年(1461年)に完成したとされる[15]。氏家は享徳の乱に際し足利成氏の命を受けた結城成朝の家臣として随行し、享徳3年11月27日(ユリウス暦:1454年12月16日)に弟の高経(朝経、祥英)と共に上杉憲忠を殺害、古河公方・足利成氏から功績を認められ、下妻荘を含む関三十三郷と大名の地位を得た[16]。したがって、氏家が築城を始めたのは、領地として下妻荘を獲得した直後のことであった。また城の完成記念に大宝八幡宮を建て、上杉憲忠を斬った「青雲」という太刀を奉納した。なお、城の完成は寛正3年(1462年)であるとする説も存在し[17]、『図説 茨城の城郭』では寛正3年説を採用している。現在では下妻と古河はどちらも同じ茨城県であるが、当時の下妻は常陸国、古河は下総国であり、古河公方にとって小田氏・真壁氏・宍戸氏・大掾氏ら伝統的な武家による支配がなされていた常陸国へ権力を介入させる上で、多賀谷氏と下妻は重要であった[18]

氏家と高経に次いで下妻城主となった基泰(家植、祥潜)は、文明10年(1478年)に足利成氏から「忠を尽くせ」との命を受け、文明14年(1482年)より行田宮内と常楽寺某を始めとして立て続けに下妻荘近在の領主を降伏させ、支配領域を拡大した[19]。そして永正の末頃(1520年頃)には現在の下妻市・常総市・結城郡八千代町の大部分と筑西市南部(旧真壁郡関城町東部)、つくば市西部(旧筑波郡大穂町・豊里町の一部)を支配下に置くまでに勢力を増した。また領下の人心を掌握するため、大宝八幡宮への太刀の奉納や城内外への寺社の建立や再興を進め、領地の政治的・経済的中心として下妻城と城下町の整備・拡大を推進した[20]

城主・多賀谷氏の興隆

基泰の跡を継いだ光経(家重)はさらに領域を拡大させ、かつての主君・結城氏の領地の倍近くを領有するまでになった[21]。光経は結城氏の当主・政朝といとこの関係にあったこともあり、結城氏への従属からの脱却・自立を進め、天文3年(1534年)に政朝方が多賀谷領に侵入して以降、完全に対立関係となった[22]。次代の朝経の時代には小田氏の小田政治と組んでたびたび結城氏・山川氏と争いを繰り返したが、天文16年5月(ユリウス暦:1547年5月)の戦いに敗れ、また翌・天文17年(1548年)に政治が亡くなったため、和議を申し入れて再び結城氏と同盟を結んだ[23]。これにより今度は小田氏との関係が悪化、小田氏を討とうとしていた佐竹氏と誼(よしみ)を通じてきたことで小田領に攻め入り、今鹿島・長高野(おさごうや)・前野(いずれも現在のつくば市内)を支配下に置いた[24]

朝経が重病に陥ったために家督を継いだ政経は、当初結城政勝が北条氏康に従ったため一時は後北条氏に従い、後北条氏の軍勢を借りて小田氏治の領地に侵攻するも、上杉謙信が関東地方へ攻め入ると上杉氏に付き、永禄4年正月(ユリウス暦:1561年1月)には佐竹・小田・宇都宮の3氏と共に結城晴朝を攻めた[25]。その結果、結城氏領であり下妻と結城を結ぶ経路上の要地であった関本(現在の筑西市関本)を奪取し、附城を置いた[26]。こうして佐竹氏との関係を強めていく一方、武田氏とも志を通じ、結城・小田両氏と敵対しながら領地拡大をもくろんだ[27]。政経の時代に多賀谷領は最大となり、現在の地名で記すと北は筑西市舟生、東は筑西市海老ヶ島、南は牛久市、西は坂東市弓田までを領有した。

多賀谷時代の終焉

第7代重経は19歳にして天正4年5月8日(ユリウス暦:1576年6月4日)に政経が亡くなったために家督を継ぎ、領地の南に接していた豊田氏を攻め、一度は敗走するも後に豊田城を水攻めにして落城させた[28]。その間、後北条氏は天正2年(1574年)に関宿城を手中に収め多賀谷領に迫りつつあり、谷田部城で激しい攻防を展開した[29]。一方、時代は天下統一へと向かっており、重経は織田信長に駿馬を送ったり、豊臣秀吉に書状を送って親交を結ぶなど、必死で乱世を生き抜こうとした[30]。天正18年(1590年)に秀吉が小田原征伐を実行すると、結城晴朝・水谷勝俊と共に参陣し、武蔵国・忍城への攻撃に参戦し、同年8月1日(グレゴリオ暦:1590年8月30日)に下妻6万石の知行を安堵された[31]。この後、重経の経歴には通説と異説が存在するため、両論を併記する。

通説

領地は安堵されたものの、秀吉から結城氏の与力大名たることを申し渡され、それを不服とした重経は長男の三経を分家して結城氏に従わせ、自身は佐竹義重の4男の宣隆を養子に迎えて佐竹氏に仕えたとされる[32]。多賀谷氏はここで重経ら佐竹派の下妻多賀谷氏(下妻城を拠点)と三経ら結城派の太田多賀谷氏(太田城を拠点)に分裂し、家臣も二分された[33]。こうして秀吉の命を満たしつつ大名の地位を守った重経は、秀吉に不満を抱き続け、病気を理由に文禄の役への出陣を拒否、所領の大半を没収された[34]。さらに慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては佐竹義宣と行動を共にし東軍を背後から突こうとしたが、西軍は敗北、責任を感じて武蔵国府中(現在の東京都府中市)に蟄居(ちっきょ)した。そして慶長6年(1601年)に下妻6万石を没収、改易された[35][36]。そして佐竹義宣を頼って出羽国へ移った[37]

異説

多賀谷三経が結城氏に服属することは、小田原征伐以前からの決定事項であり、これは家内で佐竹派結城派の対立によるものと考えられる。その後、重経は病気を理由に文禄の役への出陣を拒否、罰として下妻城の破却と金子1,000枚の提出を命じられた[38]。慶長3年(1598年)には家督を宣隆に譲り、重経は仏門に入ったという[39]。関ヶ原の戦いにおいても重経は病気を理由に参戦せず、慶長7年(1602年)に宣隆が継いだ下妻多賀谷氏は佐竹氏と共に出羽国久保田(現在の秋田県秋田市)へ移ると、自身は各地を放浪の旅に出た[40]

その後

領主のいなくなった下妻は一時天領となり、徳川家康の11男・鶴千代(後の徳川頼房)が慶長11年9月23日(グレゴリオ暦:1606年10月24日)に5万石で入封する[41][42]。このとき鶴千代はまだ3歳で、実際には家臣の朝比奈泰雄が城代として城に詰めた。鶴千代は慶長14年12月22日(グレゴリオ暦:1610年1月16日)に水戸25万石で移封、水戸藩初代藩主となったため、下妻は再び天領となった。この間、鶴千代は一度も下妻へ入ることはなかった。

慶長16年正月20日(グレゴリオ暦:1611年3月4日)、多賀谷氏の旧臣と見られる者を含む下妻の農民9人は奉行に吉衛門という人物の非法を訴え出た。訴えによると、吉衛門は城に残されていた武器(弓・槍・鉄砲など)や船板、材木、畳などを自らの在所に運び入れ、隠居(多賀谷重経)の家から城廻りの武士の家、昨年まで居住していた代官衆の家に至るまで破却したという。この時点で下妻城は面影をとどめないほど荒廃し、栄華を極めた多賀谷氏の時代はすでに過去のものとなっていた[43]

元和元年(1615年)、松平忠昌が下妻に入り、続いて松平定綱が下妻藩主となるが元和5年(1619年)に転封となり天領に戻るが、正徳2年(1712年)に井上正長が1万石で藩主に就いて以降、下妻には幕末まで井上氏14代の陣屋が置かれた[44]。井上氏の下妻陣屋は館沼の西側に置かれ、下妻城とは異なる場所である。

歴代城主 

  • 初代:多賀谷氏家
  • 2代:多賀谷高経
  • 3代:多賀谷基泰
  • 4代:多賀谷光経
  • 5代:多賀谷朝経
  • 6代:多賀谷政経
  • 7代:多賀谷重経
  • 8代:多賀谷宣隆(⇒出羽国へ)
  • 9代:徳川頼房(⇒水戸へ)

遺構 

城跡は茨城県下妻市本城町にある。関東鉄道常総線下妻駅より東へ約1kmのところに多賀谷城跡公園があり、碑が建てられている。遺構としては堀や土塁跡がわずかに認められる程度である。

参考文献 

  • 城城郭研究会 編『図説 茨城の城郭』国書刊行会、平成18年10月20日、291pp. ISBN 4-336-04771-5
  • 茨城地方史研究会 編『茨城の史跡は語る』瀬谷義彦・佐久間好雄 監修、茨城新聞社、平成元年12月30日、317pp.
  • いばらきの川紀行編集委員会『いばらきの川紀行』いばらきの川紀行編集委員会、2005年2月、201pp.
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 8 茨城県』角川書店、昭和58年12月8日、1617pp.
  • 下妻市史編さん委員会 編『下妻市史 上』下妻市役所、平成5年3月31日、494pp.
  • 下妻市ふるさと博物館『第14回企画展 下妻の遺跡 〜近年の発掘成果を中心に〜』下妻市ふるさと博物館、平成14年7月20日、53pp.
  • 人文社観光と旅編集部 編『茨城県 郷土資料事典 観光と旅』県別シリーズ8、人文社、昭和60年4月1日(改訂新版)、199pp.
  • 【書籍】「茨城県の歴史 県北編」
  • 所理喜夫・佐久間好雄・網野善彦・佐々木銀弥 編『図説 茨城県の歴史』図説 日本の歴史8、河出書房新社、1995年11月15日、238pp. ISBN 4-309-61108-7
  • 長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山髙志・佐々木寬二『茨城県の歴史』県史 8、山川出版社、1997年6月5日、340pp. ISBN 4-634-32080-0
  • ワークス 編『ふるさとの文化遺産 郷土資料事典―8 茨城県』ゼンリン、1997年3月20日、207pp.
  • 『茨城県の地名』日本歴史地名大系第八巻、平凡社、1982年11月4日、977pp.

多賀谷城の口コミ情報

2023年11月05日 マグロ常陸介祐平
寺具城(本多陣屋)[多賀谷城  周辺城郭]



Googleマップで「寺貝城跡」と誤って位置登録されている旗本本多氏の陣屋です。城域の中央部はソーラー発電所になっています。

50年こちらにお住いという方にお城についてお聞きしたところ、城とは知らなかったとの事でしたが、曲輪の南端にお住まいの方が屋号の「お陣屋」と呼ばれているので妙に納得されていました。
曲輪の北東部に土塁の痕跡が残っていますが、土塁の上の小さな祠は男神(写真3枚目)、少し北にある池のほとりにある塚の祠は女神(写真6枚目)と呼ばれ今でも信仰されているようです。

池の道路の対面には土塁と空堀が一筋確認(写真1.2.4.5枚目)できます。
陣屋の曲輪とは若干離れており、関連しているとすると旗本の陣屋としてはかなりの規模だと思われます。

2023年05月17日 内匠頭のむげん
多賀谷城



城址公園北側に10台程度の駐車場あり。遺構は無く説明板等があるのみ。余談ですが地域に馴染んでいる公園で、園内を訪れていた小学生達からコンニチハ!と挨拶されました。子供の礼儀正しさに、大人の自分が圧倒されて恥ずかしい限りです。

2023年02月21日 みつるS#S
多賀谷城



しんみりとした雰囲気でした。歴代城主よりも幕末からの幾度かの戦争の慰霊碑や記念碑の方が目立つ感じでした。

2023年01月31日 ruiw0302
多賀谷城

下妻市役所を目標にして容易く辿りつけた。駐車場はお城の北側、保育園の近くにあった。お城には難攻不落の幟が翻っていたが、その面影は見られなかった。設置してある看板を見ると水堀で囲まれた相当に守りの固いお城だったものと感じられた。ほとんど公園になっているので滞在時間はさほどに必要とはしなかった。小田氏治公を苦しめた多賀谷城と小田城の約4里の距離感を掴めたのが面白かった。

2022年04月24日 大ちゃん式部大輔16
多賀谷城



多賀谷城:4/23(土)多賀谷時代まつり実行委員会による手作り御城印無料配布会が行われました。

2021年12月06日 装鉄城大膳大夫乱怒
多賀谷城

常総線下妻駅から徒歩5分 完全な公園ですが、中心部に土塁で櫓台の形となっています

2021年06月28日 篠沼修理大夫義久
多賀谷城



駅東の本丸跡公園の方は何もなし。2メートル削平して低地を埋めて市街地造成したため。本丸跡の土壇は改変だと思われます。しかし、駅西の城山稲荷。こちらには一段高い曲輪跡にあり、高土塁も残されてます。必見。その他、駅西から北にかけては地形的に城址の雰囲気は感じられます。南西、西北西と北ですね。香りがするのは。

2021年06月13日 十時下総守半睡
多賀谷城



普通の公園の中、無料の駐車場があるので車でリア攻めには便利。歩いて近くのお好み焼き屋まで。美味!

2020年10月14日 播磨屋蔵人頭
多賀谷城

多賀谷城公園に遺構はないのですが、下妻第一高校と城山稲荷神社の境に土塁があります。また多賀谷城公園から北へ850mほどの常総線踏切の西側にも土塁と空堀が残存しています。

2020年09月15日 kazuyou大蔵大輔
多賀谷城



本丸をそのまま公園にしていますが、堀は全て埋められて道路になっています☝️公園の端に、櫓台のような高みに、多賀谷氏遺跡の碑が建っています。周りを歩くと少し高くなっているので、なんとなく城だったのかな❓️と解る程度です。トイレ🚻駐車場🅿️あります。

2020年01月21日 独眼竜常陸介
多賀谷城

完全に公園です。駐車場は10台位止められそうですが、城跡だと感じられるものはなく、看板で本丸跡と表しているくらいでしょうな。

2017年09月15日 荒井下野守健千代
多賀谷城

下妻 ふるさと博物館に多賀谷城の模型が展示してありました。
そに展示物を見てから城跡に行くと、また感じ方が違うと思います。


2017年09月15日 【籠城中】下野守智ぞう
多賀谷城

説明看板読むと何度も北条軍を撃退した難攻不落な城みたいですが、そんな面影なく遺構も残ってないのが寂しいです。

2017年03月25日 鬼義重常陸介いわちん
多賀谷城

昔は、かなり広い城郭だったらしいが、今は公園になっていて、ちょっと石碑があるくらいで何もありませぬ。駐車場10台くらい。車か下妻駅からアクセス

2015年11月25日 すずママ玄蕃頭箕輪金山PR
多賀谷城

子供の遊べる遊具のある城趾公園です。駐車場も6台くらいありました。近くにコンビニもあり子連れ行軍の休憩場所にぴったりです。

多賀谷城の周辺スポット情報

 説明板(碑・説明板)

 寺具城(本多陣屋)(周辺城郭)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

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